ニタドリユウコに興味をもっていただき、ありがとうございます。少々気恥ずかしいのですが、プロフィールを掲載しますので、ご一読いただけましたら幸いです!

幼少期・小・中学生・・・引っ込み思案でした!

引っ込み思案で、とても泣き虫でした。(といっても、今ではあまり信じてくれる人がいませんが・・・)あまりに引っ込み思案だったことを心配した幼稚園の先生が、運動会の日に目立つポジション(指揮者)を用意してくれました。

お人形遊びやものづくりが好きで、インドア派でした。母がお裁縫やお料理が得意だったので、夏休みなどはよく一緒に作ったものです。私のものづくりの原体験はここにあると思います。小学2年生からは書道を習い始め、大学時代まで続けました。

人付き合いは得意ではなく、お友達もそんなに多くはありませんでした。お友達はみんな「○○ちゃん」と「ちゃん」付で呼び合うのに、なぜか私は「○○さん」と呼ばれ・・・なんでだろう? と子供ながらに悩みました。

小・中学生の頃は、黒板の板書を自分なりにレイアウトしてノートにまとめるのが好きでした。(今思えば、グラフィックデザインの仕事は、この時の延長のような・・・)また、背も高く、落ち着いて見えたようで、小学-中学時代はずっと学級委員というみんながやりたがらない役割がまわってきました。それほど嫌というわけでもなかったので、引き受けていたら、いつのまにか、何でもそつなくこなす優等生キャラになってしまっていて、多少の居心地の悪さを感じていました。

中学時代

中学時代はテニス部でした。長時間で成果の薄い練習、厳しい上下関係、奇妙な決まりごと・・・にどっぷり浸かったの3年間でした。小学生の頃から親しかった友人が遠方に引っ越してしまい、大変困ったことを覚えています。かなり長い間「文通」をしていました。自分の感情を口に出すのが得意ではなく(いまでもそうですが)、なぜか手紙という形だと本音を伝えられるように感じたのかもしれません。

あまり大きな声では言えませんが、授業中、学校の机にレタリングをして遊んでいました。当時はやった漫画のタイトルとか・・・ これも、仕事につながっていますね・笑

自由な高校・大学時代

高校入学当初、テニス部は人気が高く、1年生は走り込みばかりしていたため、持久走の大嫌いな私はバドミントンに鞍替えしました・笑 自主自律を掲げる高校で、服も自由。一番驚いたのは、部活の先輩が後輩を「○○ちゃん」と呼び、めちゃくちゃ優しかったこと。先輩というのはかくも優しいものなのか! と、ショックを受けました。

書道の授業を選択したところ、先生に書道部に誘われてたので入部しました。いままで書いたことのない大きな作品に取り組んだり、夏休みに汗だくになりながら作品制作に取り組んだり、「創作」の面白さを学んだ3年間でした。

部活動は満喫しましたが、成績は下降の一途を辿り、卒業の頃は目も当てられず(笑) 一浪して、大学に入り、入学式で高校時代のバドミントン部の先輩に誘われて、そのままバドミントンサークルに・・・ 

大学でも書道サークルに入りましたが、何のために、昔誰かが書いた字を真似して書くんだろう? 意味があるんだろうか? 自分は何を書きたいんだろう? と考え始めたら、とうとう書けなくなってしまいました。

これといって、夢中になれることはなく、自分は何がしたいのだろう? と考えているうちに、あっというまに3年生になり、何のために仕事をするのかな? と、焦燥感と不安を覚えつつ、就職活動の時期を迎えました。時は超氷河期。

ものづくりが好きなので、それを活かせたらいいなぁ、という思いからグラフィックデザイナーを志望しましたが、そもそも美術系の大学を出たわけでもなく、大変厳しい就職活動でしたが、就職中に出会ったデザイナーさんの紹介で、卒業式の前日にアルバイト先が決まりました。

会社員時代

いくつかの制作会社で働きました。会社に泊まり込んだこともあります。今思えばブラックな企業でしたけど、当時はあまりそういう感覚もなかったような・・・。
楽しかったのはオペラのパンフレットのお仕事。ゲネプロという舞台稽古をたくさん観ることができました。
新聞広告も1000本くらいは作ったと思います。文字の広告ですから、文字組で魅せるタイプのものです。私はデザインのレイアウトが非常に早いのは、この時数をこなしていたおかげだと思います。

ある日、とても尊敬するグラフィックデザイナーの事務所の求人を見て、応募しました。憧れのデザイナーに面接でお会いすることができ、お褒めの言葉もいただき、感無量! でしたが、採用には至らず。

それを機に、今までとは違うことをしてみようかな、と考えるようになりました。

会社員時代のチャレンジ
伝統工芸品の企画・デザイン・販売・webショップの運営・・・

江戸切子のお箸置き

その後、小さな制作会社に勤務しながら、新しい道を模索しました。大学時代、美術史を学んでいた頃に、工芸品はとても素晴らしいのに、なぜこんなに評価が低いんだろう? とおもったことを思い出し、職人さんにお願いして、オリジナルで商品をつくってもらいました。当時勤務していた会社に許可を得て、勤務中の空いた時間に伝統工芸品の開発業務を行い、最終的に製品化することもできました。グラフィックデザインは「使い捨て」となる場合が多いのですが、愛情を注いで作ったものが製品という「形」となり、長く愛されるというのはとても幸せなことでした。現在もスガハラ工芸硝子さんとライセンス契約をさせていただき、伊勢丹新宿店などで販売されています。(online shopからご購入いただけます)

2012年に独立。デザインにできることは何だろう?

グラフィックデザインは丁寧につくろうと思うと際限なく手間がかかりますが、その割に使い捨てになってしまうこともありました。せっかく仕事をするなら、愛情を込めて仕事をしたい。丁寧につくるのだから、長く使ってほしい。そんなことを考えている時に、友人からwebサイトや名刺、チラシをつくれないか、と相談をちらほら受けるようになりました。

それまでデザイナーとして、できることは「美しい」デザインをすることでした。グラフィックデザイナーのところには、通常、戦略に基づいて作られたコピーや写真といった「素材」が集まるわけですが・・・

個人の方からの依頼となると、方向性も定まらず、事業計画書もない場合もあります。お客さんもwebサイトを初めて作るので、どうしたらよいかわからない・・・そんな状態で、必要に迫られて、マーケティング、マネジメントをかなり本格的に学びました。私の最終的なアウトプットはデザインなので、最終的に、一気通貫するブランディングを仕事にしたいと思うに至りました。2012年に独立。

得意なのは理念(ゴール)からデザインまで一貫性をもたせること、つまりブランディング

ロゴなどを依頼される際には、最初にゴールやミッションを明らかにするプロセスがあるのですが、実際にサービスを提供して、意外にもとても喜ばれたのが「ゴール」や「ミッション」を言語化することでした。

最初は偶然かな、と思ったのですが、あまりにお客さんが喜んでくださるので、次第に、私はお客さんの「ゴール」や「ミッション」を見つけるのが得意なのかも・・・と思うようになりました。

もしかしたら「何のためにそれをするの?」ということを執拗なまでに考えてしまう私の面倒な性質が、役に立ったのかもしれませんね。

思い起こせば、近しい友人には、あなたは○○がしたいんだね、とか、そのために△△ができるね、など、自然と話をしていたことなので、これは私の得意なことなのだな、と今は思います。

そんなわけで・・・私は表面的に綺麗にかっこよくみせるだけのデザインには、まったく興味がありません。内面をえぐるようにして、デザインが浮かび上がる・・・みたいなイメージが近いと思います。

セルフブラックすぎて、強制終了! 働き方改革!

2014年に出産をしました。独身時代はどちらかというと、子供は苦手だったので、自分の子を可愛いと思えるだろうか??と不安でしたが、実際に抱いて見ると子供はとても可愛く、パワフルで素敵な存在でした。

ですが、出産後、原因不明の体調不調となり、全身アトピーになったり、首が突っ張って回らなくなったり、高熱で救急車で搬送されたり・・・と、仕事どころではなくなってしましました。一時は、死を覚悟しました。
原因を探して様々な病院で検査をかさねましたが、これといって悪いところは見つからず。「そういうことはよくあるんですよ」「不定愁訴ですね」と軽く流す医師にガックリ・・・

持続可能でクリエイティブな生き方を模索してみつけた
ショップオーナーという方法

セルフブラックな働き方をしてしまったツケは重く、約5年働けない状況は続きました。
食事をはじめ、ライフスタイルを見直し、ブラックな働き方から、持続可能でクリエイティブな働き方にシフトする方法を模索し、そんな中、出会ったのがショップオーナーという仕事でした。

1年ほど、試行錯誤をしながら運営したところ、いろんな成果を出すことができました。
その一部をご紹介します。

  • 自分が価値がある! と思える仕事(ものづくりをする人を応援する)ができるようになった。
  • ショップオープン前に10日で23万無在庫で売れてしまった。
  • 現地で一番大きいメーカーの正規代理店になれた。
  • パッケージデザイン、自分で好きなように作れるようになった。
  • クラウドファンディングに挑戦、570%目標達成! プロトタイプ制作の資金づくりができた!
  • 熱烈なファンレターをいただくようになった。
  • 難民支援につながるアイテムを販売できた。
  • グラフィックデザインの仕事は、応援したい人限定でお引き受けするようになった。
  • 体調と相談しながら、自分でペースをコントロールして仕事ができるようになった。

2023年から・・・

ブラックなクリエイターだった私ですが、ショップオーナーという方法を選んだことで、持続可能でクリエイティブに生きられるようになりました。

この経験を踏まえ、2023年、クリエイターが、本来のクリエイティビティを活用できる社会にする方法の一つとして、私が体験してきたショップオーナーになる方法を伝えていきたいと考えています。

人生100年時代のクリエイターの人生設計の一助になれば幸いです!